インタビュー 先人に聞け!

第一回: 久馬一剛先生

インタビュアー・記事執筆:八下田佳恵/イギリス・レディング大学農業・食料経済学専攻博士課程(当時)


 「土とは何だろうか?」や「最新土壌学」といった久馬先生の著書[i]で、土壌学の扉を開いた人も多いのではないだろうか。京都大学名誉教授の久馬先生は、熱帯地域の土壌研究の第一人者として知られ、趣味はテニス、今年83歳となる年齢が信じられないほどの行動力を、現在でも著書の執筆などに注がれている。そんな久馬先生のペドロジーを始めたきっかけから、研究・教員生活、退官後の活動まで、時間軸に沿ってお話いただいた。私が約束の時間に京都大学土壌学研究室に到着した時、先生は土壌研の学生さんに囲まれ談笑をされていた。私に気付き、席を立って挨拶していただく。真っ直ぐな目線と柔らかな表情で、時折ユーモアを交えながら、インタビューは進んでいった。

 
八下田(以下Y):まず、土壌学の道に進んだきっかけから教えてください。
久馬先生(以下K): 土との出会いは、なんというか頭のほうから入った感じで実物、土を見て、土をやろうと思ったのではありません。
 中学生まで、僕はもう軍人になるということばっかり考えていたのです。そういう時代でしたからね。同じ中学の卒業生なんかみていると海軍のほうがかっこいいという感じが僕にはあって、海軍に行きたかったんですよ、けれども先生方に「今の時代に陸軍も海軍もない。行けるやつはどこへでも早く行け。」と言われて、それで2年生のときに陸軍幼年学校というのを受けて3年の初めから入ったのです。そして、半年足らずで敗戦になって復員してきた。そういうことがあって、僕は軍人以外にあんまりなりたいものがなかったというか、他のことを考えてなかったんですよ。
 それともう一つ、その「軍隊へ行け」と言っていた先生方が、帰ってきたらまったく違うことを言い出したのに対して、物凄く強い不信感を持った。もう、大人っていうのは何ていうことを言うんだと思って、ほんと、もう非常に厳しい人間不信に陥ったというかねえ、そんなことがあって、「俺百姓やろう」と。
Y:百姓?
K:そう、百姓やろうと思ったのです。というのは腹も減ってた。食料が十分でない時でねえ、物すごうお腹がすいた経験があります。でも、百姓やるには土地もないし、あんまり現実的ではないんだけどね。
 そこから「農業で自分の生きる道を探そう」そんな風に思い始めていて、土壌学をやることにしたのです。
Y:農業の中でもなぜ土だったのでしょう?
K:それはちょっと宮沢賢治[ii]の影響があります。あの人は土壌の卒業生ですから、進路に迷っている時に読んで、土か肥料か何かそっちのほうをやろうと思ったのが土壌へ入るきっかけです。
Y:本の中で土の面白さに出会ったのですね。
K: いや、土の面白さというよりも「こんな人に私もなりたい!」と思ったのですよ(笑)
Y:それで京都大学の農学部に進学されたのですね?
K:農学部を選んで、農学部へ入って、分属試験に通って農芸化学に入って、土壌を専攻するというところまではなんの迷いもなく来ました。
Y:大学に残ろうと思ったきっかけはなんだったのですか?
K: 学部の3年生の時に結核にかかったんです。やっぱりアルバイトばっかりしていましたし、食うものも食わずに大分無理をしてたと思うし。ともかく結核で、一年学部を休学して、就職しようにも厳しい就職難の時代でまともな就職が出来ないのですよ。で、大学院でまた手術をして1年休学して、合計2年休学して大学院を博士課程まで行って終わるころに、「お前は大学に残れ」と当時指導教官だった川口先生に言ってもらい、チャンスをもらったからそのまま大学に残った。だからあんまり動機ははっきりしていないんですよね。
Y:それからペドロジストの道へ?
K:そうですね、ぼくが大学を卒業したのが1954年です。ペドロジストの任意団体的なものができたのが1957年頃だったと思います。その出来方は僕の知る限りでは非常にあいまいでね、松井健[ⅲ]さんって非常にアクティブな人がおられて、そのマツケンさんが中心になられて進められたようです。
 マツケンさんは日本の大学の先生方はあんまり土のことをよく知らないんじゃないかとたぶん思われたのでしょう。57年頃というのは、まだ古い土壌の考え方、ドイツの農業地質学流というか、フェスカ流というか、その考え方がまだかなり強く残っていた時期としていいと思う。それとロシア学派の生成学的な土壌学がごっちゃにあった時期ですよ。
 だから、マツケンさんはその生成学的な土壌学のほうを推し進めようとしていて、そのために大学の先生方を集めて土を見る会を主催されたようです。川口先生なんかもそれに加わられたと思うのだけど、大先生方を集めて、エクスカーション、フィールド見学会をやられていました。それは非公式なもので、僕なんかは川口先生に「こんな会があって行って来たよ!」ということだけ聞いたくらいです。1957年ごろにそういう会があって、マツケンさんは大学の先生方を教育する会をされたのだと感じています(笑)。
 ペドロジーのグループを作る素地が出来て、そしてペドロジスト懇談会と言う日本ペドロジー学会の前身となるグループが作られて、それが出来た時に当時土壌の大学院生だった私はすぐに入りました。
Y:60年くらい前のことですね。
K: 考えてみれば、遅いわけです。1914年にはそのロシア学派の本(K.D. Glinka:Die Typen der Bodenbildung土壌生成の諸型[ⅳ])は入っていて、その当時の人はドイツ語を読めるはずだから。読まなかったのかな?ともかく定着しなかった。新しい考え方が入ってきて定着するのには時間がかかるということだったんですね。
 戦後は混乱の時期があって、その中でも、落ち着いて新しい考え方を広めようとする研究者達が何人かおられ、そういう運動をしてこられた。時代的にいうと、そういうことです。
Y:そんな時代に、先生が初めて見た土壌断面はどこのものですか?
K: 水田です、京都近郊の。大学院に入ってすぐのころでした。川口先生が、市からの委託で京都近郊の水田の土壌調査をしてくれと頼まれていて、先生自身がね、トラックの後ろに乗せて調査地を回ってくれはったんだけど、僕は自動車に弱くてね、酔うんですよ。ブレーキをかけられるたびにゲーといいながらやった水田土壌調査が最初です。
 だから僕は水田には非常に早くから親しみを持ったんですね。水田の特異な断面形成なんていうことに関心を持ったのはそのせいなんです。
Y:見て面白いなと?
K:あれは面白い。あれは面白いですよ。数年で酸化還元に伴う特徴的な断面形成の兆候が見えますからね。
Y:はじめから水田なのですね。私の中で久馬先生というと熱帯アジアで水田の断面をいっぱい掘っているというイメージが一番強いのですが。
K:500断面くらい掘りましたね。
Y:そのあたりの経緯などもお伺いしたいです。
K:それもやっぱり川口先生です。私は大学院を2年遅れて1960年に修了したのです。それから学位を取ったのが1年後、でも学位のないままで僕は助手になったのです。大学院終わってすぐに助手になってから1年経って学位を取って、そして1962年からアメリカへ留学したのです。
 その2年間のアメリカ留学中に、川口先生が東南アジアの水田調査の大きなプロジェクトを始められて。で、僕は帰ってきたら否応なしに組み込まれたのです。僕は、勉強してアメリカから帰ってきたら、どこかの農業試験場に出してくださいって、本当は頼んでたんです。僕は、実際の農業を知らないってことに、今も知らないけれども、負い目を感じていたから、北海道農試へ出してくださいと頼んでたんだけれども、川口先生に「お前は東南アジアに行け!」って言われて。
Y:寒さとしては逆ですね。
K:そう、逆の東南アジアへ入ってしまって、今も付き合っています。
Y:川口先生が調査を始められたのはどういう経緯なのでしょう。
K:京都大学に東南アジア研究センターというのが出来たときに、フォード財団やロックフェラー財団、それに関西の財界から資金が出て始められたプロジェクトでした。
 川口先生は日本の水田土壌については随分研究をしておられた。日本での水田土壌研究というのはかなりやられているにも関わらず、よその国ではほとんどされてなかったんですね。東南アジアでは特にそうです。それで川口先生は、日本の水田土壌学はどこまで東南アジアで通用するのか見たい、と同時に、東南アジアの水田で稲を作っているわけだから、なんらかの寄与をしたいということで始まったと思います。そこへ僕は入ったわけ。
Y:当時水田の研究を続けてきた、先生自身のモチベーションの維持に繋がったものは何だったんでしょう?
K:川口先生が始められたけれども、実際の調査は我々がやっているわけですから、なんとか東南アジア、熱帯アジアの水田というものをきちんとまとめたい、把握したいという思いがありました。また、それが日本の水田とどう違うのかはっきりさせたいというような思いで、川口先生が辞められてからも、水田の調査をかなり続けました。
 その中で多数のサンプルについての多数の分析データが得られたことから、その当時はまだほとんど行われていなかったコンピュータを利用した多変量解析手法をデータ処理に使い、土壌肥沃度の数値的評価をするきっかけを得たことも研究としては大きかったと思います。またフィールド調査ではっきりしたことは、水田に特有の断面形態、鉄集積層、マンガン集積層はまず無いということです。東南アジアにはなぜ無いかというのは、よく考えれば簡単で、灌漑排水が人為的にコントロールされていないからなんです。
 ぼくは東南アジアで500断面くらいは見てますけれども、その中に水田に特有の断面の形っていうのは一つも見ていません。
Y:日本とアジアの土壌断面の違いが一番の面白さだったのでしょうか。
K:それは非常に面白かったですね。それに熱帯特有の土壌もありますし。例えば、ラテライトが埋没しているような水田もありますからね。そういうものに出会うから、それはやっぱり面白いですよ。掘るのは大変ですけれどね。
 その時、9カ国の土壌を見ています。でも、ラオスの土壌は見れていないんです。ラオスには行く機会がなかった。丁度共産主義政権だったし、ベトナム戦争の影響で入りにくい状況にもあったし。
Y:それが研究生活一番の「やり残し」ですか?
K:やり残しはもっと他にもあるんですけどね(笑)。一番っていうとラオスはやっぱりやりたかったですね。ベトナムの北も出来なかったけれど、それはベトナム戦争っていうはっきりとした理由があって出来なかったんで、ラオスの場合は無理して入ろうとすれば入れたかなと。でもチャンスがなかった。
 でも、どうしても行きたかったから、京大土壌研の仕事に乗せてもらって、一昨年、今年と最近、ラオスへ行ってきました。
Y:その後の研究活動についてもお伺いしたいです。
K:熱帯地域の低地での仕事が多いですね。酸性硫酸塩土壌も見ましたし、研究活動の最後のほうでは、熱帯の泥炭をやっていて、これは現在でも大問題だと思います。いまはいろんな人が熱帯の泥炭をみてますね。あと、焼畑はちょっと違うけれど、自分から手を挙げた。
Y:焼畑研究のきっかけはなんだったのでしょう?
K: 毎年のようにタイには行ってたんだけどね、春なんかに行くと物凄い霞ですよ。飛行機から見ても下がちゃんと見えない。焼畑の煙なんですね。
 そんな大きな問題があるのなら焼畑の実態調査をしようと思って、特定研究という大きなプロジェクトの中で焼畑グループを組織したんです。本当はタイ北部で実際に焼畑をやってるところの土壌断面が掘りたかったんだけど、許可がおりずに東北になった。だから、自分たちで焼畑の実験をやった。
 しかし、今はそれが良かったと思っています。日本側のメンバーには森林生態学の大家が二人入っておられたし、土壌動物の大家にも入ってもらって、広い範囲の研究者がたくさん入って、焼畑の前後で例えば物質の収支がどうなっているかっていうようなことを見ることができて、かなりまとまった仕事[ⅴ]になったということも大変嬉しいことでした。
Y:そうした研究活動のなかでの一番の「喜び」はなんですか?
K: 報告書を書き上げたときは非常に大きな達成感がありますね。水田のまとめが「Paddy Soils in Tropical Asia」[ⅵ]という名前で川口先生の退官記念に合わせて出来て、皆さんにお配りして感謝の気持ちを表すことが出来たってことは、僕にとって嬉しいことでした。それから、焼畑のような総計30人くらいのメンバーがいる大きなプロジェクトを組織して、3年間やったのですが、その報告書がみんなの協力でちゃんと出来たっていうのも嬉しかったです。
Y:焼畑の研究に心残りはあるのですか?
K:ありますね。
 焼畑っていうのは焼畑期間だけが大事なんではなくて、そこからの再生期間が大事なんですね。どこまで回復するか、そこまで見たいと思っていたのですが、向こうの大学の土地を借りてやったもんですからね、こっちが思うように試験地を残してくれなかった(笑)。だから、再生過程が見れなかったというのが非常に大きな心残りです。
 海外で仕事をするってことにはそうした制約がありますよ。
Y:そうですね、よくわかります(笑)教員としてのお仕事はいかがでしたか?
K:僕はあんまりいい先生ではなかったんです。正直言って、講義が嫌いで講義をする日は飯がまずくなって(笑)。人前でしゃべるのは苦手でした。今も苦手です。
Y:学生への教育方針みたいなものはあったのですか?
K:それを言われると弱い。
 特別の方針はなかったけれども、僕はアメリカの大学へ行った時に、先生方の部屋のドアが全部開けてあるわけですね。いつでも学生が来て質問ができる。ぼくが行ったのはノースキャロライナ州立大学の土壌学科だったんだけれども。だから教授室はいつも開けていました。また、なんでも話せる雰囲気はあったはずなんですけど、何人かの学生さんにはよく怒られましたし(笑) 学生とか教授とか関係なく主張をすることは大事だと思っていました。
 研究をやりたいという意思を尊重していましたが、東南アジアには学生は連れて行けませんでした。簡単には学生が海外にはいけない時代だった。行けたらね、どんどん放り込んで勝手に向こうで放し飼いしてやらせたかったけどね(笑)大学院の学生を海外に行かせるには一度教務職員にするなどと手続きが厄介なのと、お金もなかった。
 東南アジアで仕事をさせたのは、東南アジアの人だけ。もう70歳くらいになるタイ人の卒業生は今、もう一人の卒業生と一緒に、農民自身で簡易土壌分析をしてコンピュータプログラムで適正施肥量を出し、その結果に基づいて農民グループで肥料の販売までをやらせる「Soil Clinic」というのを普及させようとしてますよ。
 僕はそういう運動が広がっていくのを非常に楽しみに見ています。
Y:日本人だけでなくて海外の教え子たちも活躍している、ということですね。
K:非常にうれしいですね。日本人は近すぎるからあんまり褒めないですけどね(笑)。
Y:だんだんと時間軸を下ってきましたが、退官されてからの活動についてお伺いしてもいいですか?
K: もっぱら古いことを勉強して、発表する場を与えられれば書いているということです 。この間、草創期日本土壌学[Vii]というのも書いたんだけど、なかなか発表させてくれる場がないから(笑) みなさんに読んでもらおうと思って、あちこちに送ったりしてますけれども。
Y:古い文献などを調べ直すということを始めたモチベーションはどこから来るのでしょうか?
K:これはねえ、自分が面白いから!単純にそうです。
 やっぱり現役のときは忙しくってねえ、そんなことできないじゃないですか。例えば、フェスカ(Max Fesca)が日本に来て、どこでどんなことをやった、本当はそういうことをちゃんと知って講義をしたかったけれども、それが時間の制約で出来ない。自分としてはそれが心残りだったんです。
Y:昔からペドロジーの歴史に興味があったのですね。
K:定年になって、自分の好きなことだけすればよいということになって、好きなことをしてるというのが正直なところです。小説を読むなんていうよりもやはり、少し自分の仕事と関わることをもうちょっと深く知りたいというほうが、僕には興味があるんです。
 まず最初に始めたのは、キングと言う人が日本の農業について書いた本(King, F.H.: Farmers of Forty Centuries, Permanent Agriculture in China, Korea and Japan)[ⅷ] があるんですよ、まずそれを読んで、明治の初めの農業がどんなものかっていうのを調べたのが最初で、それからフェスカ。フェスカの日本地産論の中の土壌の記述をちゃんと調べようと思って。そうするとね、明治政府の翻訳官がした翻訳に致命的な誤訳があることに気付いて、いよいよ面白いことになって(笑)
 そんなことをしばらくしてました。そうしているうちに、甲斐の国土壌図説明書の中に、「NAGAI」とローマ字で日本人の研究者の名前がでてくる、でも誰だかわからない、だからその「ナガイ」さんを探索したりしてね(笑)
Y:どこのナガイさんか分かったのですか?
K:ナガイさんは、日本の近代薬学の創始者(長井長義)の弟さん(長井新吉)なんです。ドイツのHalleの大学で農学をやっていて、日本で最初の農学に関する学位を取った人ですが、でも日本に帰ってからはあまりぱっとしなかったみたい。
Y:すごくマニアックですね。
K:出てきたのをきっかけにしてね、どこにいた人だろうと思って調べてみるのも面白かったんです。いろいろ調べてみると、古い経済学雑誌の論文といった変なところにナガイさんの論文が引用されて出てくるんですよ。変なところからきっかけをつかんでその人を割り出す。これは面白い。
Y:そういう探究心みたいなものは、もともとお持ちだったのですか?
K:もともと好奇心が強いんでしょうね。やっぱりやりたいのは自分の知らないことですよね。
Y:歴史研究をされてみてどうでしたか?
K:今大学で講義させてくれたら、前よりももっと面白い講義をできるんだがなあと。あんまり講義は好きじゃないけれども、もうちょっといいネタがあって、ウケル講義ができるんじゃないかと。下肥のこと[ⅸ]とかも調べましたし、そういうことも伝えたかったですね。
Y:先生が創立から加入されているペドロジー学会が出来て、約60年。今後の日本のペドロジー、ペドロジー学会の行き先についてどうお考えですか?
K:僕が一つ強く感じているのは、ペドロジー学会の会員と土壌肥料学会の会員がほとんど重なっているというのはよろしくないと、もっと他の分野の人に入ってもらえるような学会であって欲しいということです。
 例えば、我々が自然認識を共有すべき相手は、地質学者であったり、生態学者であったり、陸水をやってる人、気象をやってる人。実際ペドロジスト懇談会を創ったマツケン(松井健)さんや、今名誉会員で一番年上の加藤芳朗先生も地質学出身者です。それをいうならドクチャーエフ[ⅹ]自身が地質学者でした。
 他の分野の人たちが、土についての関心を持って入ってきて、ペドロジー学会の中で論議が捲き起こる、他の立場の人からの意見が聞ける、そういう場になってくれたら一番いいんだがなという思いがあります。自分も会長をやり、それが出来なかったけれど、ペドロジー学会っていうのが、そういうフォーラムになるっていうようなことを願っています。
Y:そういう分野の人やあまり土を知らない人たちに、土の、ペドロジーの魅力を伝える方法についてどうお答えになりますか?
K:昔の農業地質学的な土壌学は、岩石の風化物=土壌だという考え方できていたんですが、ロシア学派の土壌学が出てきて、要するに生物が関与することによって、土壌が生命を支える媒体になりうるということを示した。そのことの地球的な意味での大事さをちゃんと伝えられたら、人々にアピールできるんじゃないかという気はするんです。
 「命を育めないものから育めるものになる」というこのへんが、物凄く大きいはずなんですよね。だから、そういう過程を勉強するペドロジストというものはまさにそれをやっているわけでしょ?土でないもの、岩石あるいは岩石の風化物がいかにして土になるか、土になったものがどんな形になるのか、どうやってそれが生命を支えているのか、そういう関心で仕事をしているはずだから、それをまともにぶつけていくしかないんじゃないですかね。
Y:加えて、これからペドロジーを勉強する学生さんや若手のペドロジストたちにメッセージを頂けますでしょうか。
K:同じようなことですけどね、土というのは単なる岩石の風化物ではなくて、土になったからこそ、命をいっぱい宿すようになるんだと、その部分の不思議さっていうかな、それがどういうプロセスでそうなるのかっていうことの不思議さみたいなものを感じとって欲しいと願うだけですね。
Y:…今回は2時間という長時間のインタビューに付き合っていただき、ありがとうございました。最後に、今回先生のペドロジスト人生を振り返っていただきましたが、その感想をお伺いできますか。
K:僕は、初めに陸軍幼年学校から帰って農業を、農業の中で土壌か肥料かをやろうと決めてからぜんぜんぶれていません。その意味では、頑固といえば頑固なんだけれども、なんら迷うことなかったです。まったくぶれることなくやってこれて幸せでした。

注釈
ⅰ. 一般市民に向けたものとしては、「土とは何だろうか(京都大学学術出版会,2005)」「土の科学(PHPサイエンスワールド新書, 2010)」がある。

ⅱ. 宮沢賢治は、盛岡高等農林学校(岩手大学農学部の前身)で関豊太郎(1868〜1955、日本土壌肥料学会初代会長)から土壌学を学んでおり、卒業後も恩師の土壌調査に参加している。これらの経験は、賢治の農への思い、そして「グスコーブドリの伝記」などの作品に色濃く反映されている(亀井茂, 日本土壌肥料學雜誌 67(2), 213-220, 1996-04-05)。

ⅲ. 松井健博士(1925-2009) 東京帝国大学理学部地質学科を卒業後、西ヶ原の農水省農事試験場土性部に就職、ペドロジーの研究を始めたが政治的解雇にあう。その後1970年まで(財)資源科学研究所に拠ってペドロジーの研究と普及に尽力したが、その後はコンサルタント会社を起業してその社長・会長をつとめながら、ペドロジーだけでなく環境科学分野でも多くの業績を上げた。後に日本第四紀学会会長、日本大学教授など。著書に「土壌地理学序説」(1988)「同特論」(1989)、「環境土壌学」(岡崎正規教授との共著)(1993)など多数。

ⅳ. ロシア学派の生成的土壌学の考え方を初めて広く世界に紹介したGlinkaの著作。自らドイツ語で執筆した原稿を、ドイツのH. Stremme(著名なペドロジスト)がブラッシュアップして出版した。「土壌型及びその変種の特性」「ロシアの土壌帯、並びに各土壌帯分布域の簡単な特性づけ」の2部より成る。1927年にアメリカのC.F. Marbutがこの前半部を”The Great Soil Groups of the World and Their Development”として翻訳出版した。

ⅴ. Kyuma,K. and Chaitat Pairintra Eds. Shifting Cultivation: An Experiment at Nam Phrom, Northeast Thailand, and Its Implications for Upland Farming in the Monsoon Tropics(1983);久馬一剛 1984.焼き畑農業の生態学。サイエンス(Scientific American 日本版)14巻4号。

ⅵ. K. Kawaguchi & K. Kyuma. (1986) “Paddy Soils in Tropical Asia: Their Material Nature and Fertility”. University of Hawai'i Press.

ⅶ. 「アメリカ人土壌学者の見た100年前の日本農業」(2008);「土性について:フェスカの『日本地産論』を読む」(2009);「20世紀前半の日本土壌学」(2010);「Fesca『甲斐国土性図説明書』と『日本地産論-通編-』からのこぼれ話」(2011);「古代中国の土壌認識について」(2011);「中国土壌学の近代化に寄与した二人のアメリカ人―John Lossing BuckとWalter Clay Lowdermilk」(2012)など。いずれも肥料科学、30号〜34号所載。

ⅷ. King, F.H.(1911) “Farmers of Forty Centuries, Permanent Agriculture in China, Korea and Japan”. Courier Dover Publications. F. H.キング(1848~1911)は米国ウィスコンシン大学マジソン校農業物理学教授、USDA土壌局に勤務の後1909年東アジアの農業を視察し、この著作を残した。翻訳版は「東アジア四千年の永続農業〈上、下〉中国、朝鮮、日本 (図説 中国文化百華) 」 杉本 俊朗 (翻訳) 農山漁村文化協会、復刻版 (2009)

ⅸ. 「農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用」(2013)肥料科学、35号。

ⅹ. V. V. ドクチャーエフ(1846~1903、ロシア)は、土壌が「地殻の表層において岩石・気候・生物・地形ならびに土地の年代といった土壌生成因子の総合的な相互作用によって生成する岩石圏の変化生成物」であるという新しい概念も提示し、「現代土壌学の父」とも呼ばれている。詳しくは、永塚鎭男「ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響」(肥料科学,第33号,107~139,2011)を参照。